hyuga_kabocha(まっきー)のブログ

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新作ミュージカル『PARTY』の感想

2021年3月にリーディングワークショップが公開されたホリプロの新作ミュージカル『PARTY』。

先行公開のSwipeVideo版は終了しましたが、編集されたYoutube版は残っているのでリンクを貼っておきます。

新作ミュージカル「PARTY」リーディングワークショップ - YouTube

 

 まずは御礼から。SwipeVideoのアングル切り替えで観られるのは最高でした。どうもありがとうございます。

 生で観劇するのと映像で見るのとの大きな違いの1つが、「どこを観るかを自分で決められるかどうか」だと思うのですが、SwipeVideoは生で観るときほどではないにしろ、自分で観たい部分を選んで観られてとても良かったです。

 作品をつくり上げる過程のものを見られるというのも面白かったです。舞台本番では観られない、他の演者さんへの反応や待機中の様子なども見られて楽しかった。演者さんの反応を観て、どこまでが脚本でどこからがアドリブ?と不思議に思うところも。

オリジナル作品でないと難しいのかもしれないけれど、今後もリーディングワークショップや、制作段階のいろいろな様子を見られると嬉しいなと思います。「作品が出来上がっていく過程」は、作る側には当たり前のことでも、観る側には想像がつかないものもたくさんあるし、とても新鮮なものなので。

 

 作品については、音楽は大好きですし、役者さんの個性も輝いていてとても良いキャスティングだと思いました。今回初めて知った鈴木瑛美子さんは『ジェイミー』で観るのが楽しみになりましたし、エル・ガトが現代に転生してきたかのような小野田さんのMr.D.D.は大好きですし、伊礼さんの初老執事もおいしい役だなぁと。

 

 と、ここまではTwitterでも書きました。Twitterで、アングル切替視聴と音楽と各演者について褒めちぎる一方で、物語内容について全く触れなかったのは、ネタバレ防止もありますが、個人的にわからないことやいろいろ引っかかることがあって長くなりそうだったからです。歌の1曲1曲は好きで、コンサートで曲だけ聴いてもそれぞれ良い曲だと思うのですが、それらをつなぐ物語や世界観がいろいろ引っかかってしまい、入りこめなかったというのが正直な感想です。

 引っかかった部分は大小さまざまで、小さいものは揚げ足取りっぽいかもしれませんし、大きいものは私個人と作品が合わなかった部分かもしれません。単に私の理解力不足で読み取れなかった部分もあるかと思います。まして今回はリーディングワークショップで、これから作品として制作されていくなかでブラッシュアップされていく部分はたくさんあると思いますが、作品として出来上がったものを観たあとで個人的に見比べるために、現段階で感じた違和感をメモしておきます。

 

というわけで、以下、ネタバレ有りで書いていきます。

 

 

◆人物設定

登場人物について気になったのは、トム、ロバート、エリックの設定。

 トムはパーティのゲストの中で1人だけソロ曲もなく悩みも示されず、ボス・ジャックの身元保証と、MrD.D.と正反対のお堅い人物としての役割しかなくて、「これだけ?」となりました。モデルはユリが幼いころに好きだった俳優さんの1人みたいですが、そのままシンガーや俳優として登場しているブリトニーやオーランドとちがってFBI捜査官に転生しているし……。

 執事のロバートは、グランマと同様に「忘却の館」のために生み出された存在で、特にモデルがいなさそうなのですが、「グランマだけモデルとなった人物がいない」と言われていたので「?」となりました。

 そしてエリック。エリックはカイトとの別離というショックとストレスによって新たにユリの中に生まれたインナーチャイルドの1人だと思っていたのですが、「やっぱりあなた、カイトなのね」で混乱。「もしかして、現実世界と忘却の館をつなぐことができるドクトルが連れてきた本物のカイト?」とかも思ったのですが、最後に「見えなくてもずっとそばにいる」など歌っているから、やはり「ユリの中のカイト」が顕現したインナーチャイルドの一種?ですよね……?

 

※追記 この作品中で「インナーチャイルド」と呼ばれているものは、「イマジナリーフレンド」と混同されているものがあると思うのですが、作中に合わせて「インナーチャイルド」と表記し、作中の「インナーチャイルド」の定義で進めていきます。

 

 

◆変化の理由

 全体の流れとしては、まったく異なる3組の悩みをいきなり問題解決するゲーム自体が無理ゲーで、ましてや1曲で?と思う中、ユリのあの回答での3組の納得っぷりに全くついていけず振り落とされてしまいました……ユリがこれまで自分で気づかなかったことに気づけたこと、気づいた内容は良かったと思うのですけど、その答えだけで、本当に、あなた方3組の抱えた深い悩み解決します?本当に?となってしまって。3組ともユリのインナーチャイルドなので、ユリ自身が答えを見つけてユリ自身が納得すれば納得するということなのかもしれませんが。

 そしてここまではインナーチャイルドということにしても、いちばん引っかかったのは物語の結末、「現実の」両親とユリとの和解です。完全に、禅さんと樋口さんと瑛美子さんの演技力で、禅さん演じる父親の万感迫る表情と言葉で、感動的な感じにして押しきりましたけど、ユリが瀕死になって生還しただけで解決する親子の問題じゃなくないですか??? 過干渉の両親が、事件に巻き込まれて瀕死の状態の、ずっと行方不明で探していた一人娘と再会したら、過干渉が加速しこそすれ、ユリ個人の尊重には、親子関係の問題の解決には、つながらないような……

 

 全体的に、「心の変化の理由」がわからずに置いていかれた感じです。心情を歌う1曲1曲は良い曲だと思うのですけれど、その心情へと変化した理由や、その心情が変化した理由がわからなくて困惑しました。

 

ユリはなぜ「起きることすべてを力に変える」という問題解決を思いついたのか、

なぜあんなに嫌がっていた館の住人との別れを受け入れられたのか、

なぜあんなに許せなかった両親を受け入れようと思ったのか。

 

 この物語のテーマがユリの変化と成長ならば、物語の流れと展開として、この心情変化の理由がいちばん大事ではと思うのですが、ここがいつの間にか変化して物語が進んでいたように感じて「えっ、なんで?」となってしまいました。

 私の読解力が無かったらすみません。もしくは私がユリより頑固で執念深いのかも。何度か通しで見たけれど、どうも私にはこのあたりの心の変化がすっと入ってこなかったので。

 もちろん、登場人物の心情やその変化がすべてわかる必要はないですし、物語の引っかかりを、音楽と舞台空間と世界観で殴って解決する某ラブネバタイプの作品もあるのですけれど。

 

 

◆親の過干渉問題

 「心の変化の理由」にこだわるのは私の個人的な感情かもしれませんが、ユリと両親の和解については、感情以上に引っかかるものがあります。

 

 最近は「教育虐待」という言葉で、親の愛(親自身は愛と思っているもの)ゆえの過干渉の虐待問題が可視化されてきたと思うのですが、ユリの境遇はそれに近いわけです。子が将来困らないようにという親の愛はもちろんわかりますが、「子が将来困らないように」という子に選択肢を与える行為が、「親が望むような人生を歩んでほしい」という理由で子の選択肢や意思を奪う行為に変化したら、それはもう愛とは別のものなわけで……。

 そして過干渉の虐待は、「親子だから」「子への愛だから」を理由に行われるものなので、その問題に対して愛情いっぱいに「親子なんだから」と言ってまとめるのはいちばんやってはいけないことなのではと思うのですけれど、どうなのでしょう……。過干渉を受けた子の当事者がこの結末を観るとかなりきつい気がするのですが……

 いくら禅さん演じる父親が娘の幸せを願う愛が深くとも、娘自身を尊重できなければ悲劇が待っているというのは14世紀のヴェローナでもうやっているわけですし……ここはヴェローナではなく「親による過干渉」「教育虐待」が問題として認知され始めた21世紀の日本で、新たに作られる作品なわけですし……。

 

 禅さんが人物像を深く考えてさまざまな提案していたというお話はいろいろなインタビューでも出てきましたし、実際の芝居も素晴らしかったと思います。娘への愛情あふれる父親な禅さん、人物像とそこから生まれる人間らしい感情をきちんとつくりこんだ禅さんのお芝居は大好きで、初見時は禅さんの芝居で一度はぐっと流されそうになりました。ユリの父親が、娘を愛していてとても大事なことも、とても心配していることも伝わってきます。が、でもそれだけに、個人の素晴らしい芝居で流してはいけない問題なのではと……。

 くどくどとすみませんが、本当に、あのラストシーンの禅さんパパの芝居は大好きなのです。だから、その物語上の使われ方にずっともやもやしているのです。

 

 

◆変化しなければいけないのは誰

 家族関係に問題を抱える主人公が、夢の世界でいろいろな人物と会って、自分の過去を思い出して、何かに気づいて変化して、目覚めて、家族と向き合う。ここだけ見ると、私がとても大好きな某作品と似ています。

 

 でも某作品は、全部ではなくとも家族問題の主な原因は主人公のほうで、その主人公が夢の世界の冒険を経て変化します。現実の家族は夢の前と何も変わっていないけれど、主人公が忘れていた感情を思い出すことで、それが主人公の変化につながって、これから家族との関係を変えられるかもしれない、という流れに違和感は無かったですし、その後に家族とどうなったかは明示されません。家族の側は、当然最初は突然変化した主人公にとまどうだろうし、これまでのことに怒りもするでしょう。主人公を許さない選択肢もあると思います。主人公も、夢から戻ってきて、これまでと変わらない現実を前に変化を維持するのは容易ではない。それでも、変われるか、変えられるか、それを家族は受け入れられるのか。いろいろな可能性を感じさせるところで終わるラストでした。(BW版はハッピーエンドを明示)

 

 それに対してこの作品は、主な原因は親のほうなのに、親は何も変化していない。その一方で、過干渉を受けた側の子が、変化して、親を受け入れるというラストになっている。親は、子が瀕死になって死ぬほど心配はしただろうけれど、過干渉の原因となったであろう思考部分は何も変わっていないわけです。娘のことが大事なのは昔からで、むしろ大事に思ったのが過干渉問題の原因です。

 ユリが全く変わらなくていいとは言いませんし、過去に自分が生み出した懐かしく愛しい存在と再会して、何かを発見し、成長できたのならそれは素晴らしいと思います。でも、この親子関係に関しては、親側が、自分たちの何がいけなかったのか、なぜ娘が離れていったのかを考えることも変化することもなく(したかもしれないけれどその過程や理由は作中で示されないまま)和解に至るのが、一方的で、この辺がとてももやもやしてしまうのです。

 両親側の変化が話の中で示されていれば、ちゃんと大事だからこそユリを尊重して親子関係をやり直したいという意味での「親子なんだから」であれば、いいのですが。

 

 

 

◆作品の主題は?

 この作品ができた経緯は、この記事に詳しく書いてあります。ジェイソン・ハウランドの既存の楽曲を使い、「パーティ」という設定のお題で新しい脚本を募集して、採用されたのが今回の作品のようです。

ミュージカル・クリエイター・プロジェクト特集Vol.1『PARTY』脚本・横山清崇、演出・元吉庸泰、音楽監督・竹内聡インタビュー - Musical Theater Japan

 これによると「誰もが人生の途中で置いてきたものがある、と思い返せる作品」とのこと。うーん、インナーチャイルドと再会して元気や勇気をもらうのがテーマで、親子問題は主なテーマではないのかな……私がテーマを読み違えてるからこんなに引っかかるのかな……

 (私も別にファンタジーな創作物に完璧なリアリティや整合性を求めるわけではないので、気になるのは多分に個人的な問題かも……。親の過干渉で死ぬ寸前まで追い詰められた人を知っているので、変にこだわってしまうのかもしれません。すみません。)

 

◆「PARTY」の意味

 それならそれで完全に余談で細かいことを言うと、インナーチャイルドたちの「消えるけど、見えなくなるけど、会えなくなるけど側にいるよ」というのも、個人的には「私たちはみんなあなたなんだよ。だから消えるわけじゃなくこれからもあなたの中にいるんだよ」ではないのかなぁと。

 

 辛さから逃げるためにユリが生み出したインナーチャイルドたちと、大人になったユリが再会したことでユリが変化して、ユリの中へ戻っていって消えるのかなと。

 

 社交の場の「PARTY」の話のようでいて、「私たちもユリで、この仲間(PARTY)でユリはこれからも人生を歩んでいくんだよ」という話で「PARTY」というタイトルだと思ったのですが、妄想解釈かな……

 

 

◆今後どうなるのかな

 話が散らかってきたのでそろそろ終わります。ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。ここからどうなっていくのかわかりませんが、ジェイソン・ハウランドの音楽を1作品分、バラバラにして新しく使い、これだけの企画で作っているのですから、良い作品になるとよいなと心から思いながら見守ります。