hyuga_kabocha(まっきー)のブログ

Twitterに書ききれない長文投稿用ブログです。

ダンス・オブ・ヴァンパイア(2019~20)の感想

2019年11月に帝国劇場、2020年1月に博多座で、ダンス・オブ・ヴァンパイアを観劇しました。

感想をまとめたいのですが、とりあえずTwitterのスレッドで長々と書いた感想を貼っておきます!

 

帝国劇場

https://twitter.com/hyuga_kabocha/status/1192720374678478848?s=20

 

博多座

https://twitter.com/hyuga_kabocha/status/1214383780946833408?s=20

 

石川禅5thソロコンサートの感想

2019年9月2日、3日に開催された、石川禅さんの5thソロコンサート。

ちゃんと感想をまとめて情報もまとめたいのですが、とりあえずTwitterのスレッドで長々と書いた感想を貼っておきます。

https://twitter.com/hyuga_kabocha/status/1168889328547897344?s=20

石川禅5thソロコンサート予定曲目の勝手な解説

石川禅さんの5thソロコンサートの予定曲が一部発表になりました。

 日曜劇場「ノーサイド・ゲーム」でだんだん不穏さと存在感を増してくる脇坂賢治が気になる方!脇坂の美声が気になる方!

 脇坂の中の人、石川禅さんは歌も素晴らしいのです。9月2日、3日のソロコンサートへ来て、生の脇坂の歌を聴いてみませんか?

 「でもミュージカルなんて知らないし~」という方のために、超私見、超ダイジェストで、発表された曲の解説を書いてみました。

 もちろん、予備知識無しで行っても楽しめると思います!公式も「ノーサイド・ゲーム」から来るお客様を想定しているようですし、ミュージカル曲だけでなくポップスも歌うそうです。

 でももし、歌われるミュージカル曲について「軽く知っておきたい」という方がいたら、こちらをどうぞ。


♪「カフェソング」(『レ・ミゼラブル』)
 
 物語の主役はジャン・バルジャンですが、これはバルジャンの娘の恋人のマリウスという青年の歌です。

 フランス革命後、王政に戻って貧困に苦しむパリ市民を見て、青年学生マリウスは王政を倒すべく、志を同じくする学生たちと砦(バリケード)を作り、蜂起します。これは、自分たちが蜂起すれば市民も立ち上がることが前提の蜂起だったのですが、市民は立ち上がらなかったため、砦は軍に鎮圧され、学生たちは全滅します。しかし、マリウスは重傷を負って気絶しているところをバルジャンに救われ、ただ1人生き残ります。
 
 この歌は、そんなマリウスが、かつて仲間たちと夢を語り合ったカフェを1人訪れ、自分だけ生き残った苦しみや亡き友人たちへの想いを歌う歌です。

 禅さんは作品中でもマリウスを演じ、その後46歳になってもスペシャル公演でマリウス役として出演するほど、代表的な役の1つになっています。


♪「対決」(『ジキル&ハイド』)
 
 善良で生真面目な医師の青年ヘンリー・ジキルは、自分で作った薬を自分の体で試した結果、悪の人格エドワード・ハイドが現れ、二重人格になります。
 
 この歌は、ハイドが夜な夜な人を殺す中、必死に元に戻るための新しい薬を作ったジキルが、その新薬を飲んでハイドを消そうとするときに歌う歌です。

 ジキルとハイドの人格が交互に現れ、争いが激しさを増すにつれ人格の入れ替わりも激しくなります。声も性格も全く違うジキルとハイドの言い争いを、数小節ごとに完璧に歌い分ける圧巻の歌です。

 禅さんは作品中では、ジキルの親友・アターソンを演じていました。


♪「どうやって伝えよう」(『ロミオ&ジュリエット』)
 
 ロミオのいとこで親友のベンヴォーリオが、ジュリエットが死んだことをロミオにどう伝えようか思い悩む歌です。

 イタリアのヴェローナで、モンタギュー家とキャピュレット家という2つの家の対立が続く中、モンタギュー家の一人息子ロミオとキャピュレット家の一人娘ジュリエットは両想いになります。
 しかし、ジュリエットのいとこでジュリエットに片思いしていたティボルトはロミオに闘いを挑み、自分の代わりに親友のマーキューシオが致命傷を負ったことにかっとなったロミオはティボルトを殺してしまい、ヴェローナから追放されます。
 婚約者との結婚を迫られたジュリエットは薬を飲んで仮死状態となることで家を出てロミオと結ばれようとしますが、計画を伝える手紙がロミオに届かず、事情を知らないベンヴォーリオがジュリエットの死だけをロミオに伝えてしまいます。
 
 禅さんは作品中ではジュリエットの父・キャピュレット卿を演じていました。
 
♪「レベッカⅢ」(『レベッカ』)
 
 身寄りのない若い娘「わたし」は、妻を亡くしたばかりの大富豪・マキシムと旅先で偶然出会い、求婚されます。結婚して彼の屋敷へ行くと、そこにはマキシムの前妻で人を惹きつけるカリスマがあった「レベッカ」の影響が色濃く残っていました。加えて、レベッカを崇拝する家政婦頭・ダンヴァース夫人により、「わたし」は少しずつ追い詰められていきます。

 この歌は、ダンヴァース夫人がレベッカを讃え、「わたし」を追い詰めて飛び降り自殺の寸前まで追い込む迫力の怖い歌です。

 禅さんは作品中では、マキシムの親友のフランク・クロウリーを演じていました。


♪「目を開いて」(『笑う男』)
 
 16世紀のイギリス、グウィンプレンは2歳のころに人買いに買われ、見世物にするために大きく口を裂かれて、常に笑った顔になりました。人買いの船は嵐にあって沈みますが、生き残ったグウィンプレンは雪原をさまよう中で盲目の赤子を拾ってデアと名付けました。その後2人はウルシュスという男に助けられてそのまま家族となり、成長します。
 成長したグウィンプレンとデアは想い合う仲になりますが、グウィンは大貴族の元から誘拐された嫡男であることが判明します。屋敷の執事・フェドロの思惑でグウィンプレンはウルシュスとすれ違ったまま引き離され、貴族として生き始めます。
 
 この歌は、貴族院に初めて登院したグウィンプレンが、自分たちの利益だけを考えて政治を行う貴族たちに、もっと貧しい人々のことを見てほしいと訴える歌です。

 禅さんは作品中では、グウィンプレンを操ろうとする執事・フェドロを演じました。


 現時点で発表になった曲については以上です。また追加発表があればつけ加える予定です。

 これ書いてるお前誰だよと思われるかもですが、ただの禅さんファンの1人です。
 実は直接観ていない作品もあるし、勘違いもあるかもしれないので、間違いを見つけたらコメントに書き込んでいただくか、Twitterで@hyuga_kabochaまで教えていただけるとありがたいです。即刻修正します。

 需要があるかはわかりませんが、誰か1人にでもお役に立てば嬉しいです!

写真は上記リンク先(石川禅ソロコンサート公式HP)より。
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フリーダ・カーロ -折れた支柱- (2019年8月3日マチネ)

 2019年8月3日の昼、六本木トリコロールシアターで、TipTap新作オリジナルミュージカル「フリーダ・カーロ -折れた支柱-」を観劇してきました。これまで行った劇場でいちばんキャパが小さいのは劇団四季自由劇場だったので、キャパ200のトリコロールシアターが新鮮。
 このくらいの劇場空間で、この作品だからこその密度と熱気をぐっと感じて、テンポ良く進むストーリーと演者の力に引っぱられてあっという間の1幕2時間でした。開演前から無言の芝居が始まり、開演後は役者は一度も舞台からはけずに隅から隅まで行き来し、芝居をしていて、これが円盤化されるとどうなるのか、ちょっと想像がつかないくらいです。

 ちゃんと感想を書きたいのですが、書く時間がとれないので、観劇直後に連投したツイートを貼っておきます。

 時間を見て以下に少しずつでも書き足していけたらいいなぁと思っています。随時更新。

 石川禅さんのレフ・トロツキー他はほんと最高でした。禅さんが演じるインテリロマンスグレーお爺ちゃん…!可愛さもかっこよさも哀れさも全部良かった。
 今井清隆さんのディエゴ・リベラはわりと私の中ではキーヨのイメージだったのですが、いろんな人が「髭がないキーヨ久しぶりで一瞬わからなかった…」「今井さんがパパじゃなくて色男してる…!」などなど感動していて面白かったです。
 彩吹真央さんのフリーダ・カーロは、日本でフリーダを演じるのはこの人しかいないのではというくらいぴったりでした。
 この3人のキャスティングだけでも素晴らしいし、他のキャストのみなさまも本当に良かった。タイタニックもそうでしたが、上手い人たちがプリンシパルもアンサンブルもないくらい全員でぎゅっと密度の高い芝居をするのが大好きです。
 禅さんが「メキシコの風を感じて」とツイートしたので反射みたいに「感じました!」とアンケートに書いて投函しましたが、ほんとに暑く乾いた独特の風と熱があの空間にあったと思います。あの空気を肌で感じて観ることができてよかったです。

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ミュージカル「笑う男」大千穐楽ツイート

 2019年5月の『笑う男』大千穐楽(北九州公演)のツイートをつなげずにバラバラつぶやいてしまったので、この記事にまとめておきます。主に禅さんについてです。
 
作品や登場人物についての感想は、ここ
とかに書いてます。
 
「笑う男」大千穐楽 本編
 
 見世物小屋でウルシュスが客席を煽るところでどんどん拍手が起こり、盛り上がってるところにトムジムジャックが食い気味に凄い勢いで「もったいぶるなよ!」って突っ込んで来て、それにさらに拍手で盛り上がった。
 
 貴族院前では、両手を挙げて挨拶するグウィンにフェドロが「会釈?それ本当に会釈?もう一回考えて」とツッコんで再考させ、今度はグウィンが首と体をかしげると「私は嫌いじゃないですけどね」と言って退場。客席から拍手が起こりそうになりました。

 

(※私が聞き間違えたツイートは削除し,ここに土下座して謝ります。フェドロの台詞を聞き間違えるなんて一生の不覚。あ、禅さんは悪くありません。私はもともと耳が悪く、言葉の聞き取りが怪しいのです)
 
 
 
カーテンコール挨拶。
 
 のぶ兄もまぁ様もねねさんもとても真面目で素晴らしい挨拶だったので、禅さんのカテコ挨拶第一声は「なんでみんなそんな真面目なの!!!」でした(笑)
 
 フェドロは、最初に演出家の上田さんから「禅さんの役はこの時代にはあり得ない役(貴族じゃないのに大貴族に仕える)」「だけど禅さんならできる」と言われたそう。なので貴族じゃないのに貴族に仕えることができたのは、それだけのことができた、そのようにふるまえた人間ということだから、そう見えるように動きにこだわったと。禅さんいちばんのこだわりシーンは、ジョシアナが落としたチョーカーを拾うシーンで、絶対に膝を曲げずに美しく拾うこと。その場でチョーカーを取るシーンを実演し、「毎回命がけです」と笑いをとっていました。
 
 浦井健治さんには「かつて息子役で息子のような~」と言いながらお互いに頭を下げ、山口祐一郎さんに「来年にはただならぬ関係になる~」と言いながらお互いに頭を下げる石川禅さん。
 
 これ、たぶん「来年には」じゃなくて「何年後かには」みたいな言い方したんですよね。「ヘアスプレー」のことを、契約した時の感覚で言ったのかなーと思って意訳ツイートしましたが、もしかして再来年以降にもただならぬ関係になるんですかね?(邪推)(ラカージュとか?)(邪推)
 
 最後は「今後も浦井健治をよろしくお願いします!」でした。ほんとに仲の良い父子というか、仲の良い教授と弟子というか。(ありがとうございました)
 
 カテコ退場時、トカゲ男さんたちに「早く行け」とばかりに蹴る仕草も美しい禅さんフェドロ。いつものようにフェドロとジョシアナが腕を組んでたけど、2回目組む瞬間にジョシアナ様がぴょんっ、と嬉しそうに跳ねてた。あの衣裳でわかるくらいだから結構跳ねたのでは。フェドロは左手もしっかり添えてたし、仲良し仲良し。
 
貴重な大千穐楽体験でした!「笑う男」早く再演してほしいし、映像も出してほしいな!
 
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ミュージカル「笑う男」登場人物の感想と妄想

ミュージカル「笑う男」の感想の、登場人物解釈&妄想編です。
 
東京観劇直後にTwitterでつぶやいたのはこちら
 
北九州公演(大千穐楽
感想ツイートはこちら
 
千穐楽についてのブログ記事はこちら
 
物語背景の歴史や宗教について自分用にまとめたメモはこちら
 
です。
 
ウルシュス
 
 初見のラストシーンでは「ウルシュスがかわいそううう!」と怒りみたいな感情が先立って泣けなかったのですが、「ラストシーンでウルシュスが微笑んでいる」「天を仰いで優しい笑みを浮かべている」というツイートを読んで、あ、それならそういう物語なのかなと少し納得。(私の席からはウルシュスの表情がよく見えていなかった)
「残酷なこの世」から愛する2人の子たちが解放される、愛する子たちが(死という形でしか結ばれなくなった結果)結ばれて幸せになることを悲しいながらも受け入れて、愛する子たちを笑顔で見送っているのですね。「愛しい娘デアがグウィンプレン無しでは幸せになれない」ことを誰よりも知っていて、自分の幸せよりも愛する子たちの幸せを優先した父がウルシュスなんだと思ったらそこで初めて涙が出てきた。
 
って整理したつもりだったけど、もう1回観て背中であれだけ泣いてるの見たら、この後どう生きていくのか考えたら、やっぱりウルシュスがああああ!ってなった。今日は回想シーンの「俺もこいつと同じで口が悪いがな!」みたいなとこで泣。こうやって、血がつながってなくても似てなくても俺とお前は父子だ、って育てたんだろうなぁ。
 
「この世界は残酷」と歌うウルシュスに始まり、最後はこの残酷な世界を去る子たちを見送り、ひとりこの残酷な世界に残ったウルシュスで終わる。「笑う男」は、実はウルシュスという男の物語なのではと思いました。
 ウルシュスにバルジャンみがあるからそう思ったのかもしれませんが。
 
(と思ったところで原作に戻ると、原作はデアが死んでウルシュスが気を失っている間にグウィンも入水しちゃったという絶望鬱エンドで「さすがユゴー先生ですね……」という言葉しか出ない。)
 
ウィンプレン
 「デアが僕を愛してくれるのは目が見えない(この裂けた口が見えない)から」
 という思いをどこかに抱えながら生きているところに、ジョシアナの誘い。「この姿を愛してくれる人がいれば、デアの愛、デアへの愛にもっと自信が持てるかも」 と思ったのかな(好意的解釈)。
 でも「顔の醜さゆえに壮絶なコンプレックスを抱いている」グウィンプレン、の裂けた口に触れ、その姿が良いっていうのって、ファントムの素顔を見て触れてその姿がいいっていうようなものだから、そりゃジョシアナにぐらつくよねと。
 
 
ラストシーン、観劇直後は「なぜ父を一人残していけるのだ!」と思いましたが、ウルシュスが微笑んでいたのなら、「父さんなら『デアを1人にしておけない』という僕の気持ちがわかるはずだし、父さんも誰かがデアのそばにいてあげないとかわいそうと思うはず」という信頼があってのあの行動だったのかなと。
 とはいえ、気になったのは、デアは自然死だけど、グウィンプレンは入水自殺ですよね(脳内をよぎるジャベール)。それで2人同じところに行けるのかな…とは思いましたが、そこは「誰かを愛することは神様のお側にいること」ということですかね。
 
 
 
原作超飛ばし読みの私は、舞台化でいちばんひどい目にあったのはデヴィッドだと思ったのですが、ちゃんと読んだ人が
 
「グウィンプレンの心の動きがかなり省略されて見えにくくなっていてもったいない。舞台化で割りをくっているのはグウィンプレン」
 
みたいなことをおっしゃっていたので、ちゃんと原作読まねば。グウィンの最後の選択には、貴族院に出席するまでの心情、貴族院での出来事を受けての心情も関わっているはずだけど、どうしても舞台の尺では掘り下げきらない部分ですよね。
 
そういえば、「笑う男」の新訳が出版されるようですね。ありがたい。
 
 
 
 
デア
 
目が見えないデアが、「木に宿る天使」で鮮やかに「色」を歌うのが大好きなんですよね。目の見えないデアにとって「色」は、「色」を教えてくれたウルシュスやグウィンプレンや仲間たちが彼女にそそいだ「愛」そのもの。
 
 
 
幼い2人が転がり込んで来たとき、この赤ん坊が「デア」「星」という意味から、お前のその口は月か、ってウルシュスが言うけど、今後、ウルシュスパパはふと夜空を見上げて、三日月とそのそばで光る星を見てグウィンとデアを想うのかな、などと思うともう(泣)
 
 
 ウルシュスをバルジャンに重ねると、コゼットポジションがデアになるので、いろいろと考えていたのですが、1つ気になることが。気のせいかもしれませんけど、デアって一度も父親のことを呼んでいないような。
 
 
 
フェドロ
 
原作では老人、韓国版ではアンサンブルを従えセンターでステップを踏んで踊るコミカル担当、というのが全く想像がつかない、日本版の禅さんフェドロ。静かに、淡々と自分の企みの実現のために水面下で動く怪しさ。
 
ガーデンパーティでの貴族への嫌味と嫌悪たっぷりの狂言回しもくるくる変わる表情も、ジョシアナがグウィンの素性を知って結婚やめるって言ったときの「は?何言ってんだこの女」みたいな顔で感情のすべてを語る表情も、とても良かった。開封官になる時に瓶の中身を知っていたのかという話をチラチラ見ましたが、「ありがとうございます」をしっかりと2回繰り返すことから、私は知った上で申し出ていると思っています。
 
 
 
最後のシーンは、ジョシアナに遮られなかったら何と言おうとしていたかがとても気になります。その言葉によってもがらりと解釈が変わりそう。でも何も言わずに去っていくフェドロ。内心のショックはあるだろうに、それを感じさせずに退場。たぶんこのフェドロなら別の貴族に取り入ってまた同じように淡々とやっていくんだろうなと思わせる後ろ姿。見た目だけならジャベールっぽさもあるフェドロですが、中身は真逆ですね。ジャベールは神や法や正義などを自分の外部の何かを絶対視して拠り所にしたけど、フェドロは自分の中の望みが拠り所で自分のために生きているから死なない。その能力を活かして、望みのためにしなやかに長く生きそう。
 
 
 
観劇前「ジョシアナとできているのでは」というツイートを見て、「男女だからって安易にくっつけすぎ」と思っていたのですが、観たら何となくわかったかも。ジョシアナとの決別シーン、フェドロが浮気して言い訳しようとしててジョシアナが言い訳なんか聞きたくない黙って出ていけみたいな男女の別れ話っぽさをちょっとだけ感じたんですよね。身分の壁はしっかり感じるし、別に甘い雰囲気は無いし、男女っぽさを漂わせてるわけでもないんだけど、なんとも言えない「近さ」を感じたから、それでそんな風に感じたのかな。でもたぶんそれはジョシアナのフェドロへの「信頼」ゆえで、フェドロもそこにつけこんでいて、だからこそ「裏切り」の言葉が出てくるのかな~と。
 
 (あ、でも北九州で観た時は、東京で観た時ほど別れ話っぽさを感じなかった気も。何か違ったっけな…考え中)
 
 
 
そして、みんな気になるフェドロの「裏切り」について。
 
ジョシアナの召使いに過ぎなかったフェドロが、国から開封官の地位をもらい、それを利用してクランチャーリー卿(グウィンプレン)に近づいて、グウィンを傀儡にのし上がろうとすることも、グウィンとジョシアナが結婚すれば間接的にジョシアナも操れるから「裏切り」かな。
 「誰も生まれた星(身分)からは逃れられない」って流れの話だったし、ジョシアナを利用してジョシアナより上に行こうとしたのは主人であるジョシアナへの裏切り、と。
 
 大千穐楽で禅さんの挨拶にありましたが、貴族ではない者が貴族に仕えるというのがまずありえない時代に、とり立ててくれた主人に隠し事をし、何かを企むこと自体「裏切り」だったのかも。
 
 あと、フェドロがデヴィッドを「庶子」と馬鹿にしたとき、上で聞いていたジョシアナが怒っていたから、主人の出自を馬鹿にしたあれだけでももしかすると「裏切り」案件なのかもですね。フェドロは庶子(デヴィット)を馬鹿にし、嫡子(グウィンプレン)を讃えた。フェドロはあのセリフをジョシアナが聞いていることに気づいていないけど、ジョシアナは聞いていた。だから「私があなたの裏切りを知らないと思ってるの?」となった?
 
 
 
なんだか「裏切り」がゲシュタルト崩壊起こしそうになってきました。一言でガツンとくるように強めの言葉が選ばれたのかもしれませんが,もう少し詳しくジョシアナ様にののしってもらえると←わかりやすいのかな。
 
 
 
ジョシアナ女性公爵
 
「生まれながらにすべてを持っている」人って、「自分の手で手に入れられるものが1つもない人」でもあるんですよね。
 
ジョシアナが「自分が望むものは手に入らない」って言ってるけど、ジョシアナが望むものはたぶん「自分で選び、自分で手にいれたもの」だから、女王によってグウィンプレンが婚約者になった瞬間に絶望してしまう。歪んでいるようだけどこの作品の人物像としてはわりと行動や理念がしっかりしていてわかりやすいほうだと思う。貴族院でのグウィンの演説にも貴族の中で唯一反応しているし、たぶんベースは素直というか純なんだろうなぁ。
 
 
 
「私の人生を生きていく」は、この貴族という籠の中の世界で、他の誰にも理解されず私1人で生きていく、という諦めとその中での決意の歌かな。そういう意味でシシィの「私だけに」と同じような違うような似ているような。
 
 シシィは美貌や外交など自分のやり方で闘ってやる、屈しない、という決意だけど、ジョシアナは仮面をかぶって生きていくという決意だから諦めと悲壮感が出てるのかも。
 
 
 
 
 
デヴィット・ディリー・ムーア卿
 
 原作から改変されて、すっかり悪役になってしまったデヴィット卿。
原作からどう変わったかは
参照。もはや別人。
 
 ソロでいろいろと歌っていましたが、やはり「異母弟売り飛ばして跡継ぎになり財産をちゃんと受け継いだのに、それを活かせず借金まみれになったのは生まれのせいではなくお前のせいだろ」が感が消えません。役者さんが頑張っていただけに、脚本からくる?キャラの薄さがもったいない。
 
 こんなデヴィットが単独で誰にもばれない犯罪ができるわけない、フェドロがそそのかしたんだろ、みたいなツイートもちらほらあって面白かったです。直接的に言わなくても、フェドロが若いデヴィットの前で
「あの赤ん坊のせいであなたは全て失うのですね」とか
コンプラチコによる子の誘拐が多発しているそうです。最近は貴族の子でも被害があるとか」
「●●するだけでコンプラチコはやってきて、子を受け取り何も聞かずに去っていくそうです。これではだれでも簡単に子を売れてしまう。恐ろしい話ですね。」
とか繰り返してたら確かにデヴィットやりそうだし、詰めが甘いところをフェドロがこっそり裏処理してそう。(妄想)
 
 
 
 原作だとたしかジョシアナは生まれたときに、王に陥れられたクランチャリー卿の死後に一部没収された財産をもらってるんですよね。だからフェドロがその時にもらった財産や屋敷にくっついてきた、すなわちジョシアナの前はクランチャリー卿に仕えていて若いデヴィットの側にいた可能性もないではないし、そう考えればフェドロがわりと我が物顔でクランチャリー卿の屋敷をうろうろしてるのも説明できそうな。(妄想)
 
 
 ここまで妄想してなんですが、でもあそこまで庶子を馬鹿にしているフェドロが、嫡男排するデヴィットを助ける理由が無いんですよね~
証拠握って強請るのなり傀儡にするつもりかなとも思ったけど、それならもっと早く、デヴィットが財産失う前にやってるだろうしな~。
 
 
 
まとめ
 初演の粗さみたいなのは感じたし、版権持っている韓国との調整大変だったんだろうな、というのも伝わってきて、役者さんの力量や団結力やその他もろもろ力技で押し切った感じでしょうか。
 ブラッシュアップして再演重ねてほしい。もちろんフェドロは禅さんで、歌も増やしてほしい。
 
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「笑う男」(19.4.20)感想と物語背景メモ

 2019年4月20日(土)昼公演の『笑う男』を観てきました。
に感想を連ねていますが、ここではさらに言いたいことをどんどん書いていきます。
 これだけツイートしておいて今さらですが、この記事もネタバレ有りで、原作や映画のことも絡めながら好き放題書いていきます。まとまり無いので、適宜つまみ読みしてください。
 原作と映画のあらすじがごっちゃになっているものもあると思いますし,歴史や原作の理解などで、間違いや勘違いがあったらすみません。
 以下、随時更新です。
 
物語の背景 : 歴史と宗教と登場人物
 ざっくりと全体的な感想を言うと、原作から見事に歴史と宗教の話を取り去ったな、と思いました。原作を舞台の尺にするとそうなるんでしょうね。
 
★デヴィッド・ディリー・ムーア卿 
 それにより大変なことになったのが、デヴィッド・ディリー・ムーア卿。原作では国王に気に入られ、役職も与えられ、ジョシアナにも好かれ(ジョシアナは縛られる「結婚」が嫌なだけ)、家も栄えていて、輝くばかりのエリート貴族です。
 
 原作ではジェームズ2世(カトリック)とクランチャリー卿(ピューリタン・共和政主義者)が政治的・宗教的に対立した結果、ジェームズ2世がクランチャリー卿を捕えて「お前の嫡男をコンプラチコに売り飛ばしてやる」と言って絶望させた後に処刑します。そしてファマン(グウィンブレン)を売り飛ばしました。一方、デヴィッドの母親は王に気に入られていたため、その息子のデヴィットも可愛がられます。
 
 それが、「ジェームズ2世」の要素をカットしたがためにグウィンプレンの誘拐犯になり、そのためにわかりやすい悪役設定(財産を食いつぶしジョシアナの財産と体目当ての没落貴族)になるというデヴィッド……。
 
コンプラチコ 
 コンプラチコも「手当たり次第に誘拐する犯罪者集団」というよりは「商品が人間の商人集団」です。
(現在の価値観での善悪は横に置いておきます.。当時ももちろん善しとされていたわけではなく、治安回復のために後に追放されますが)。
代金を支払って子を買って、中国由来の医療技術などで「改造」して、高値で売る。よく考えたら、当時、子の口を裂いてその後も元気というのはかなり高度な医療技術です。もちろん幸運な成功例なんでしょうけど。
 そして、コンプラチコは国籍はバラバラながら全員カトリックという共通点もありました。これゆえ、ジェームズ2世との結びつきがあり、王に利用されていた、という設定です。
(※モデルとなった人身売買集団はあったかもしれませんが、「コンプラチコ」とその設定はユゴーの創作です)
 
 ところが名誉革命でジェームズ2世が追われ、ウィリアム3世とメアリー2世が迎えられて2人の共同統治となります。メアリー2世はジェームズ2世の娘ですが、母親がプロテスタントであったこと、当時のイングランドでは「カトリックの王」に対する印象が悪かったことから、伯父のチャールズ2世の命で、妹のアンと共にプロテスタントとして育てられました。そのため、ジェームズ2世追放後の王として選ばれます。
 
 このメアリー2世たちによって、ジェームズ2世とつながりのあったコンプラチコは治安回復の名目で国外追放されることになり、コンプラチコの出航のシーンにつながります。
また、同時に浮浪児など子どもの保護を定める法律ができ、不審な子どもを連れていると職質みたいなことをされたようです。逃げるコンプラチコがグウィンプレンを置いていったのはこのせい。
 
 
★アン女王
 そしてウィリアム3世とメアリー2世の死後、王位についたのが作中に登場するアン女王。
 ミュージカル的に言うと、「レディ・ベス」ことエリザベス1世でテューダー朝が途絶えた後の王朝がスチュアート朝で、このスチュアート朝最後の君主がアン女王です。ベスが1559年生まれ、アンが1665年生まれなので、だいたい100年後くらいの女王ですね。
 アン女王は結婚していて、夫とも仲が良く、子を何人も身ごもったのですが、ことごとく流産・死産を繰り返します(抗リン脂質抗体症候群という自己免疫疾患だったと推定されています)。姉のメアリー2世も同様で、2人とも跡継ぎがいなかったため、スチュアート朝は断絶します。
 
 
★紅茶
 ワペンテイクのワンポイント講座で「紅茶」とあったので、調べたものを載せておきます。
 17世紀半ば、ちょうどアン女王が生まれたころに、アンの伯父のチャールズ2世と結婚したポルトガル王女・キャサリンが、大量の砂糖と紅茶を持参して毎日飲みました。これをきっかけに、イギリス上流階級で紅茶が大流行し、後のイギリスの紅茶文化につながっていきます。逆に言うと、この時までイギリスに紅茶の習慣はあまりなかったようです。
 そしてこの頃から19世紀初めまで、イギリス東インド会社は茶の輸入を独占し、イギリスに莫大な富をもたらします。
 貴族たちによる豪華なガーデンティーパーティーのシーンは、おそらくこのあたりが背景。
 
★その他
 17世紀半ばのヨーロッパは、小氷期により飢饉とペストと魔女狩りが横行して不安定だったようです。17世紀末にはようやくそれも落ち着きます。グウィンプレンの幼いころ、ウルシュスも生活が厳しそうなのはこの飢饉の名残があるくらいの時期なのかなと。グウィンプレンの成長後の一座がそこまで貧しいように見えないのは、一座が成功しているからか、庶民の生活が上向いているからなのか。
 
登場人物についての感想・妄想はこちらの記事で↓