hyuga_kabocha(まっきー)のブログ

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ミュージカル「笑う男」登場人物の感想と妄想

ミュージカル「笑う男」の感想の、登場人物解釈&妄想編です。
 
東京観劇直後にTwitterでつぶやいたのはこちら
 
北九州公演(大千穐楽
感想ツイートはこちら
 
千穐楽についてのブログ記事はこちら
 
物語背景の歴史や宗教について自分用にまとめたメモはこちら
 
です。
 
ウルシュス
 
 初見のラストシーンでは「ウルシュスがかわいそううう!」と怒りみたいな感情が先立って泣けなかったのですが、「ラストシーンでウルシュスが微笑んでいる」「天を仰いで優しい笑みを浮かべている」というツイートを読んで、あ、それならそういう物語なのかなと少し納得。(私の席からはウルシュスの表情がよく見えていなかった)
「残酷なこの世」から愛する2人の子たちが解放される、愛する子たちが(死という形でしか結ばれなくなった結果)結ばれて幸せになることを悲しいながらも受け入れて、愛する子たちを笑顔で見送っているのですね。「愛しい娘デアがグウィンプレン無しでは幸せになれない」ことを誰よりも知っていて、自分の幸せよりも愛する子たちの幸せを優先した父がウルシュスなんだと思ったらそこで初めて涙が出てきた。
 
って整理したつもりだったけど、もう1回観て背中であれだけ泣いてるの見たら、この後どう生きていくのか考えたら、やっぱりウルシュスがああああ!ってなった。今日は回想シーンの「俺もこいつと同じで口が悪いがな!」みたいなとこで泣。こうやって、血がつながってなくても似てなくても俺とお前は父子だ、って育てたんだろうなぁ。
 
「この世界は残酷」と歌うウルシュスに始まり、最後はこの残酷な世界を去る子たちを見送り、ひとりこの残酷な世界に残ったウルシュスで終わる。「笑う男」は、実はウルシュスという男の物語なのではと思いました。
 ウルシュスにバルジャンみがあるからそう思ったのかもしれませんが。
 
(と思ったところで原作に戻ると、原作はデアが死んでウルシュスが気を失っている間にグウィンも入水しちゃったという絶望鬱エンドで「さすがユゴー先生ですね……」という言葉しか出ない。)
 
ウィンプレン
 「デアが僕を愛してくれるのは目が見えない(この裂けた口が見えない)から」
 という思いをどこかに抱えながら生きているところに、ジョシアナの誘い。「この姿を愛してくれる人がいれば、デアの愛、デアへの愛にもっと自信が持てるかも」 と思ったのかな(好意的解釈)。
 でも「顔の醜さゆえに壮絶なコンプレックスを抱いている」グウィンプレン、の裂けた口に触れ、その姿が良いっていうのって、ファントムの素顔を見て触れてその姿がいいっていうようなものだから、そりゃジョシアナにぐらつくよねと。
 
 
ラストシーン、観劇直後は「なぜ父を一人残していけるのだ!」と思いましたが、ウルシュスが微笑んでいたのなら、「父さんなら『デアを1人にしておけない』という僕の気持ちがわかるはずだし、父さんも誰かがデアのそばにいてあげないとかわいそうと思うはず」という信頼があってのあの行動だったのかなと。
 とはいえ、気になったのは、デアは自然死だけど、グウィンプレンは入水自殺ですよね(脳内をよぎるジャベール)。それで2人同じところに行けるのかな…とは思いましたが、そこは「誰かを愛することは神様のお側にいること」ということですかね。
 
 
 
原作超飛ばし読みの私は、舞台化でいちばんひどい目にあったのはデヴィッドだと思ったのですが、ちゃんと読んだ人が
 
「グウィンプレンの心の動きがかなり省略されて見えにくくなっていてもったいない。舞台化で割りをくっているのはグウィンプレン」
 
みたいなことをおっしゃっていたので、ちゃんと原作読まねば。グウィンの最後の選択には、貴族院に出席するまでの心情、貴族院での出来事を受けての心情も関わっているはずだけど、どうしても舞台の尺では掘り下げきらない部分ですよね。
 
そういえば、「笑う男」の新訳が出版されるようですね。ありがたい。
 
 
 
 
デア
 
目が見えないデアが、「木に宿る天使」で鮮やかに「色」を歌うのが大好きなんですよね。目の見えないデアにとって「色」は、「色」を教えてくれたウルシュスやグウィンプレンや仲間たちが彼女にそそいだ「愛」そのもの。
 
 
 
幼い2人が転がり込んで来たとき、この赤ん坊が「デア」「星」という意味から、お前のその口は月か、ってウルシュスが言うけど、今後、ウルシュスパパはふと夜空を見上げて、三日月とそのそばで光る星を見てグウィンとデアを想うのかな、などと思うともう(泣)
 
 
 ウルシュスをバルジャンに重ねると、コゼットポジションがデアになるので、いろいろと考えていたのですが、1つ気になることが。気のせいかもしれませんけど、デアって一度も父親のことを呼んでいないような。
 
 
 
フェドロ
 
原作では老人、韓国版ではアンサンブルを従えセンターでステップを踏んで踊るコミカル担当、というのが全く想像がつかない、日本版の禅さんフェドロ。静かに、淡々と自分の企みの実現のために水面下で動く怪しさ。
 
ガーデンパーティでの貴族への嫌味と嫌悪たっぷりの狂言回しもくるくる変わる表情も、ジョシアナがグウィンの素性を知って結婚やめるって言ったときの「は?何言ってんだこの女」みたいな顔で感情のすべてを語る表情も、とても良かった。開封官になる時に瓶の中身を知っていたのかという話をチラチラ見ましたが、「ありがとうございます」をしっかりと2回繰り返すことから、私は知った上で申し出ていると思っています。
 
 
 
最後のシーンは、ジョシアナに遮られなかったら何と言おうとしていたかがとても気になります。その言葉によってもがらりと解釈が変わりそう。でも何も言わずに去っていくフェドロ。内心のショックはあるだろうに、それを感じさせずに退場。たぶんこのフェドロなら別の貴族に取り入ってまた同じように淡々とやっていくんだろうなと思わせる後ろ姿。見た目だけならジャベールっぽさもあるフェドロですが、中身は真逆ですね。ジャベールは神や法や正義などを自分の外部の何かを絶対視して拠り所にしたけど、フェドロは自分の中の望みが拠り所で自分のために生きているから死なない。その能力を活かして、望みのためにしなやかに長く生きそう。
 
 
 
観劇前「ジョシアナとできているのでは」というツイートを見て、「男女だからって安易にくっつけすぎ」と思っていたのですが、観たら何となくわかったかも。ジョシアナとの決別シーン、フェドロが浮気して言い訳しようとしててジョシアナが言い訳なんか聞きたくない黙って出ていけみたいな男女の別れ話っぽさをちょっとだけ感じたんですよね。身分の壁はしっかり感じるし、別に甘い雰囲気は無いし、男女っぽさを漂わせてるわけでもないんだけど、なんとも言えない「近さ」を感じたから、それでそんな風に感じたのかな。でもたぶんそれはジョシアナのフェドロへの「信頼」ゆえで、フェドロもそこにつけこんでいて、だからこそ「裏切り」の言葉が出てくるのかな~と。
 
 (あ、でも北九州で観た時は、東京で観た時ほど別れ話っぽさを感じなかった気も。何か違ったっけな…考え中)
 
 
 
そして、みんな気になるフェドロの「裏切り」について。
 
ジョシアナの召使いに過ぎなかったフェドロが、国から開封官の地位をもらい、それを利用してクランチャーリー卿(グウィンプレン)に近づいて、グウィンを傀儡にのし上がろうとすることも、グウィンとジョシアナが結婚すれば間接的にジョシアナも操れるから「裏切り」かな。
 「誰も生まれた星(身分)からは逃れられない」って流れの話だったし、ジョシアナを利用してジョシアナより上に行こうとしたのは主人であるジョシアナへの裏切り、と。
 
 大千穐楽で禅さんの挨拶にありましたが、貴族ではない者が貴族に仕えるというのがまずありえない時代に、とり立ててくれた主人に隠し事をし、何かを企むこと自体「裏切り」だったのかも。
 
 あと、フェドロがデヴィッドを「庶子」と馬鹿にしたとき、上で聞いていたジョシアナが怒っていたから、主人の出自を馬鹿にしたあれだけでももしかすると「裏切り」案件なのかもですね。フェドロは庶子(デヴィット)を馬鹿にし、嫡子(グウィンプレン)を讃えた。フェドロはあのセリフをジョシアナが聞いていることに気づいていないけど、ジョシアナは聞いていた。だから「私があなたの裏切りを知らないと思ってるの?」となった?
 
 
 
なんだか「裏切り」がゲシュタルト崩壊起こしそうになってきました。一言でガツンとくるように強めの言葉が選ばれたのかもしれませんが,もう少し詳しくジョシアナ様にののしってもらえると←わかりやすいのかな。
 
 
 
ジョシアナ女性公爵
 
「生まれながらにすべてを持っている」人って、「自分の手で手に入れられるものが1つもない人」でもあるんですよね。
 
ジョシアナが「自分が望むものは手に入らない」って言ってるけど、ジョシアナが望むものはたぶん「自分で選び、自分で手にいれたもの」だから、女王によってグウィンプレンが婚約者になった瞬間に絶望してしまう。歪んでいるようだけどこの作品の人物像としてはわりと行動や理念がしっかりしていてわかりやすいほうだと思う。貴族院でのグウィンの演説にも貴族の中で唯一反応しているし、たぶんベースは素直というか純なんだろうなぁ。
 
 
 
「私の人生を生きていく」は、この貴族という籠の中の世界で、他の誰にも理解されず私1人で生きていく、という諦めとその中での決意の歌かな。そういう意味でシシィの「私だけに」と同じような違うような似ているような。
 
 シシィは美貌や外交など自分のやり方で闘ってやる、屈しない、という決意だけど、ジョシアナは仮面をかぶって生きていくという決意だから諦めと悲壮感が出てるのかも。
 
 
 
 
 
デヴィット・ディリー・ムーア卿
 
 原作から改変されて、すっかり悪役になってしまったデヴィット卿。
原作からどう変わったかは
参照。もはや別人。
 
 ソロでいろいろと歌っていましたが、やはり「異母弟売り飛ばして跡継ぎになり財産をちゃんと受け継いだのに、それを活かせず借金まみれになったのは生まれのせいではなくお前のせいだろ」が感が消えません。役者さんが頑張っていただけに、脚本からくる?キャラの薄さがもったいない。
 
 こんなデヴィットが単独で誰にもばれない犯罪ができるわけない、フェドロがそそのかしたんだろ、みたいなツイートもちらほらあって面白かったです。直接的に言わなくても、フェドロが若いデヴィットの前で
「あの赤ん坊のせいであなたは全て失うのですね」とか
コンプラチコによる子の誘拐が多発しているそうです。最近は貴族の子でも被害があるとか」
「●●するだけでコンプラチコはやってきて、子を受け取り何も聞かずに去っていくそうです。これではだれでも簡単に子を売れてしまう。恐ろしい話ですね。」
とか繰り返してたら確かにデヴィットやりそうだし、詰めが甘いところをフェドロがこっそり裏処理してそう。(妄想)
 
 
 
 原作だとたしかジョシアナは生まれたときに、王に陥れられたクランチャリー卿の死後に一部没収された財産をもらってるんですよね。だからフェドロがその時にもらった財産や屋敷にくっついてきた、すなわちジョシアナの前はクランチャリー卿に仕えていて若いデヴィットの側にいた可能性もないではないし、そう考えればフェドロがわりと我が物顔でクランチャリー卿の屋敷をうろうろしてるのも説明できそうな。(妄想)
 
 
 ここまで妄想してなんですが、でもあそこまで庶子を馬鹿にしているフェドロが、嫡男排するデヴィットを助ける理由が無いんですよね~
証拠握って強請るのなり傀儡にするつもりかなとも思ったけど、それならもっと早く、デヴィットが財産失う前にやってるだろうしな~。
 
 
 
まとめ
 初演の粗さみたいなのは感じたし、版権持っている韓国との調整大変だったんだろうな、というのも伝わってきて、役者さんの力量や団結力やその他もろもろ力技で押し切った感じでしょうか。
 ブラッシュアップして再演重ねてほしい。もちろんフェドロは禅さんで、歌も増やしてほしい。
 
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