hyuga_kabocha(まっきー)のブログ

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ミュージカル「レベッカ」2018久留米公演の感想

 20181215日、久留米シティプラザでミュージカル「レベッカ」を観てきました。初演・再演は観ておらず、今回が初レベッカでした。
Twitterにも簡単に感想を書きましたが、https://twitter.com/hyuga_kabocha/status/1073752633574215680 
ここでは原作と比較しながら、ネタバレありで感想を書いていこうと思います。
前半は装置や道具的な演出について、後半は登場人物についてです。
 
初演・再演を観た人の感想を読むと、「レベッカ肖像画(顔は布で隠れている)」と「ダンヴァース夫人の最期の高笑い」などが今回からの大きな演出かと思います。あと最後にみんなが花を投げていくところも?かな。
 
レベッカ肖像画については「イメージを膨らませる邪魔になる」「レベッカの『姿』が見えないのが怖いのに」という感想が多いようで、確かに「肖像画」というのは賛否分かれるかもしれませんが、あそこに「レベッカの象徴」が在り続けるというのは面白いと思いました。ダンヴァース夫人が「わたし」に勝ち誇って笑うシーンは、「わたし」を見下ろすダンヴァース夫人の上からレベッカが見下ろしている。離れて立つマキシムと「わたし」の間にはレベッカがいる。「わたし」がダンヴァース夫人に勝つところではレベッカとダンヴァース夫人の間に「わたし」が力強く立つ。みたいな構図が意識されていたような。個人的には、肖像画ではなく、それこそ作中でダンヴァース夫人が大事にしているカトレアでもよいのかな~と思いました。
 
 ◆カトレア
そういえば、このレベッカが好きだったと言ってダンヴァース夫人が大事にしている「カトレア」、原作では全く出てこないんですよね。マンダレイに咲き誇る真っ赤な「しゃくなげ」は随所に出てきて、後に赤い炎に包まれる館を意識してるのかなとか思っていたのですが、ミュージカルではカトレアが突然出てきたのでびっくりしました。カトレアの花言葉は「成熟した大人の魅力」「優美な貴婦人」「魔力」「魅惑的」…なるほど、レベッカにぴったりですね。
ちなみに作中に出てきた「ひなぎくは薔薇にはなれない」という言葉は原作そのままです。雛菊(デイジー)の花言葉は「純潔」「無邪気」「平和」「希望」…確かにこれは何とも「わたし」っぽい。
 
 ◆天使
原作では、レベッカの容貌が頻繁に「天使」と形容されます。モーニングルームのキューピッドは「レベッカがいちばん気に入っていたから」とダンヴァース夫人が大切にしていましたが、レベッカを投影していたのでしょうね。だからこそ「わたし」がダンヴァース夫人の目の前で意図的に壊すのでしょうけど。と言っても、1回目に「わたし」がうっかり壊してしまうのは原作通りですが、このもう一度、夫人の目の前で壊す行為は原作にはありません。この2回目を入れるのなら、レベッカを天使と形容するのをミュージカル版も強調すればいいのに、なんて思ってました。人々が口々にレベッカの容貌を天使と讃えていたのが印象的だったので、対照的にミュージカル版ではベンが「わたし」の優しさを「天使」と言ったのは「おおっ」と思いました。
 
 ◆ダンヴァース夫人の最期
マンダレイの火事のクライマックスシーン。レベッカ肖像画の顔を覆っていた布を引き落とすと、顔が見えるかと思った瞬間に肖像画を照らしていた照明が消え、肖像画がガタンと落ちて、再び照明が当たると肖像画があった場所に現れたダンヴァース夫人が狂ったような高笑い(をしながら炎の中に消える?)して終わります。顔が見えるかと思った瞬間に照明が消えて落ちる演出は好みです。その後の高笑いは「壊れた」のがわかりやすいのはいいけどそこまで派手にしなくてもいいかなというのが個人的な印象。
ラブネバーダイ初演でも同じようにマダム・ジリー(そういえばダンヴァース夫人とキャラかぶる)の狂った高笑いで1幕が終わって「ちょっと違和感あるな」と思ったんですけど、実力派で迫力出せる女優さんに「狂気の女性」を表現させようとするとこうしたくなっちゃうのかな~。
この演出、布を引き落とすタイミングと照明を落とすタイミングを完璧に合わせないといけなくて照明さん大変だなと思ってたんですけど、久留米2日目では照明が落ちたまま戻らず、ダンヴァース夫人に当たらないトラブルが起きてしまったようですね…。暗闇の中で高笑いだけ聞こえて終わったとのことで、リピート回ならそれもまた一興かもしれませんが、この回しか観られない涼風さんファンはそりゃ怒るよなぁ。
 
 
 ◆マンダレイの火事
 実は原作では、ダンヴァース夫人が火をつけたとはっきり示されてはいません。「ダンヴァース夫人が荷物をまとめていた」「どこにも姿が見えない」中で火事が起こったというだけです。原作をもとに時刻や距離を調べて「レベッカのことでショックを受けたジャック・ファヴェルがロンドンから車かっ飛ばして先回りして火をつけることも可能」としている感想も見かけました。その発想はなかった。
(蛇足:「ファイアー!ファイアー!」を聴いて、ジキル&ハイドの「事件!事件!」は名訳だったのだなぁと思いました。)
 
 
 ◆エピローグ
プロローグにリンクし、年を重ねたマキシムと「わたし」を他の登場人物たち全員が囲んでのエピローグ。
みんなが手にしている花はレベッカが愛したカトレア…にしては小さかった気もするのですが、やはりカトレアですかね?よく見えなかったのですけど。
他の登場人物たち全員(※年を重ねている主人公2人と違ってあの日のままの姿。プログラムによると「影たち」となっている)が歌いながら投げた花は輪になり、その中で歌うマキシムと「わたし」。一方、歌わずに1人だけゆっくりと進み出たダンヴァース夫人は、その輪から離れた場所に花を投げ、2人に背を向けて舞台から去っていく。
うーん、花はそれぞれの登場人物の心を表しているのかな。マンダレイにいても離れても、(感情の良し悪しは別として)みなに思われながら年を重ねて生きていくマキシムと「わたし」。一方、そこから離れて決して交わらないところに、マンダレイレベッカにだけ心を残したままこの世から去っていったダンヴァース夫人。かなぁ。
 
 

 

 ◆ダンヴァース夫人(涼風真世さん)

 

 レベッカの強火担、ダンヴァース夫人。原作ではレベッカがいかに優れた素晴らしい女性だったかを、尋ねてもいないのにとうとうと語るシーンが何回かあります。完全に、推しがいかに素晴らしく尊いかを語って陶酔するファンです。

 

 でも原作のこの部分を読んでいると、ダンヴァースはレベッカへの「愛」や「崇拝」よりも、「憧れ」が強かったのではと感じました。自分に無いものをすべて持ち、できないことをすべて可能にする、自分とはまるで違う(正反対の?)レベッカという女性への強烈な憧れ。

 

 と考えると、ダンヴァース夫人の地の部分は、実は「わたし」に似ているのでは、なんて妄想してしまいました。レベッカの座に別の人間が座るだけでも許せないのに、ましてそれがレベッカと正反対な、かつての自分にそっくりな女となると、許せなさが増すのかなと。

 

「わたし」を決して「ミセス・ド・ウィンター」とは呼ばず「奥様」呼びを貫くのもいいですよね。

 

 涼風さんのダンヴァース、冷たさも歌声の迫力も見事でした。「これこれ、こういう涼風さんが観たかった!!!」という感じで、歌もたっぷりで大満足です。キューピッドの後のシーンなど、祐様マキシムとのぶつかり合いのシーンもすごくよかった。

 

 そしてあれだけ壮絶にダンヴァース夫人を演じた後のカーテンコールで、手順を間違えて照れ笑いする涼風さんがあまりにも、あまりにも可愛いらしくてびっくりした。ギャップ萌えで観客を萌え殺しに来てましたよあれ。

 

 

 

 

 

 ◆マキシム・ド・ウィンター(山口祐一郎さん)
 

 

 先に山口さんのマキシムのビジュアルを見てから原作を読んだせいもあるのかもしれませんが、脳内で完全にマキシム=山口祐一郎。原作から抜け出てきたかと思うレベル。上流階級の気品に端正な顔立ち、スタイルの良さ、内面の不安定さや脆さも含めて。あえて言えば、山口マキシムのほうは癇の強さがやや控えめで、可愛さがやや増しか。そして毎度のことながら、62歳で42歳のマキシム演じて違和感ゼロの驚異。

 

さらにマキシムの歌が思っていた以上に多くて、これをシングルキャストで2か月近くやるのかと驚きました。4月~5月の「笑う男」も主役級シングル、11月の「ダンス・オブ・ヴァンパイア」も主役シングルですよね…すごい。これまでも激務をこなしてきてるんでしょうけれど、どうぞご無理なさらずという言葉が自然に出てくる。
 
 

 1幕のモンテカルロで「わたし」とマキシムが愛を確認して「わたし」がマキシムの腕にとびこむシーンと、2幕のボート小屋前で「わたし」とマキシムが愛を確認してマキシムが「わたし」の腕にとびこむシーンは、完全に対になっているのは好きな演出でした。

 
 
 
 

 

 ◆「わたし」(平野綾さん)

 

 原作の「わたし」、自分に自信がなく、ネガティブな妄想を延々としちゃうところ、わかる。
 
 

 他の方の感想で、「マキシムが愛した子どものような純粋な『わたし』は、レベッカを殺したマキシムを守るために変わってしまった。これもすべてレベッカの思惑通り。「わたし」はレベッカのような強い女性になった。結局はレベッカの勝利だ」というのも見かけておおっ!と思いました。この解釈大好きです。マキシムも真相を話した後、「きみの目から子どもっぽさが消えてしまった」って言ってますしね。

 

ですが、原作を読んだ自分の印象だと、原作では「わたし」がどれだけ自分とレベッカを比較し、「マキシムがレベッカを愛していた」という幻想に囚われていたかがみっちり書いてあるので、「マキシムがレベッカを愛していなかった」とわかった瞬間に自分を縛っていた幻想から解き放たれて、「わたし」が劇的に変わるのがわかります。「マキシムが人を撃ち殺したと知ったから」「マキシムを守らなくてはいけないから」わたしが変わったというより、「マキシムがレベッカを愛していなかったことを知ったから」わたしは変わった感じです。

 

原作では特にですが、前半はマキシムが「わたし」を女性として愛しているというより、「人間の嫌なことを忘れさせてくれる純粋で可愛い子ども(生き物)」としてかわいがっている、癒しを求めている印象があります。物語の前半では、レベッカのことを考えていた「わたし」の目から子どもっぽさが消え、レベッカのような「女」の目になっていたことをマキシムが露骨に嫌がるシーンもあります。

 

でも、このシーンのように「女として妻としてのレベッカへの嫉妬や対抗心から歪んで変わった」のではなく、「レベッカよりも自分が愛されている自信」を得、「自分」を得たことで「わたし」は変わりました。マキシムも、ただ彼を慕い癒すだけで自分のない「わたし」ではなく、自分を得て大人になり、彼の弱い部分や罪を知ってもその上でマキシムを「愛する」わたしの腕に飛び込んでいくので、2人がレベッカを超えて初めて対等に愛し合えた瞬間なのでは。

 

必ずしも、強くなること=レベッカのようになること、ではないですからね。原作ではこの後「マキシムがわたしの頭をなでるなで方が、飼い犬のジャスパーをなでるようなこれまでのなで方とは変わった」という主旨の、「わたし」がこれまでとは別種のマキシムの愛情を感じていることがわかる部分があります。
 

 

 あと、ミュージカル版では「わたし」の希望で仮装舞踏会が開かれますが、「レベッカが開催した仮装舞踏会がいかに素晴らしかったか」を人から聞かされ続けた原作では最後まで渋っています。ヴァン・ホッパー夫人も呼びません。
 
 
 
 平野綾さんの「わたし」、モンテカルロでの自信のなさげな様子は思っていた以上に自信なさげで良かったし、変わってからの強い平野「わたし」も大好きです。うん、この「わたし」なら何があってもマキシムを守れる(確信)。山口マキシムを守るためなら何でもするみたいな強い愛情が伝わってきました。
 
 
 
 

 

◆フランク・クロウリー石川禅さん)

 

マキシムの親友で「わたし」を見守るフランク。初演・再演と比べると少し親しみやすさが減った、冷たい感じがしたという感想も見かけましたが、再々演から観た私からすると

 

「これで親しみが減ったって、初演・再演のフランクどれだけ良い人だったんだよ!!!」

 

というのが第一印象です。これだけ誠実さと信頼を体現した人が『誠実さと信頼』を歌うのか。
 
 
は禅さんファンで、どんな役の禅さんも大好きだし巧いなと思うのですが、それにしてもこういうふんわり優しい良い人役、ほんっとに似合うなぁ。禅さんの声や表情の優しさ・甘さを存分に楽しめますね。
 
 
 (だからと言って、禅さんが人畜無害系良い人にばかりキャスティングされるのはもったいないので、恋したり色気漂わせたり悪の華咲かせたり光り輝いたりいろいろしてほしいです。どれもそれぞれに素晴らしいので。)
 
 
 禅フランクが「わたし」にレベッカについて尋ねられ、「お美しい方でした。私がこれまでお会いした女性の中でいちばん」と答える台詞は原作通りでしたが、ここの言い方が初演・再演と変わり、それもあってフランクの印象が変わっていたようなのは面白い。

 

直接観て比較したわけではありませんが、フランクの善良さはそのままに、ミセス・ド・ウィンターとの距離を少し(立場上適切に?)とったのかなと思います。また、「ちょっと内気になった」「少し陰がある」と感じている人もいて、そう考えると原作のフランクに近づけたのかなとも思いました。
 

 

「わたし」がレベッカのものをすべて処分するのを見たシーンの表情は、少女が成長して本当の意味で「ミセス・ド・ウィンター」になったのを見て嬉しい&安心した(でもちょっと寂しい?)兄や父親みたいな表情ってことでよいのかな?
 
 ファヴェルとの「持ちつ持たれつ」のシーン、「わたし」に近づこうとするファヴェルと「わたし」との間に一生懸命立ちはだかる禅フランクの好感度はさらにアップ。ファヴェルはソファでぽんぽん跳ねながらよくこんなにきれいに踊って歌うなぁ、と思いながら観てたんですけど、ファヴェルがソファの背で跳ねた後で、ソファが傷んでないかちゃんとチェックする管理人な禅フランクかわいい。ファヴェルに巻き込まれてファヴェルと背中合わせでくるくる回りながら踊る禅フランクかわいい。そして解放されて不愉快そうな迷惑そうな「何だよ、もう」みたいな顔する禅フランクかわいい。

 

(ついつい、「ガーディナー様がルナール大使と一緒にくるくる回ってるー♪」などと思ってしまいました。)

 

 
終盤、レベッカの病についての真相の電話がかかってきたときのマキシムとフランク、電話をとるあたりの演出がこれまでと少し変わったようですが、向き合った2人の感情が溢れ出し、すべては語らないけれども喜びをしっかりと分かち合う芝居がとても素晴らしかった。ここは「フランクがレベッカの死の真相を知っていることが明確」になった今回の演出では、さらに感動が増しますね。マキシムとの関係性も強くなった気がする。せっかく祐一郎さんと禅さん2人が共演するのなら、こういうお芝居を観たい。

 

今期の禅フランクは真相を知っていることで、いろいろな場面で細かい表情の芝居も多く、人物としての厚みが増してますよねたぶん。
『誠実さと信頼』も、「わたし」の長所を褒めているような歌ですが、同時にレベッカの短所を並べているような歌でもあり、今期の「ちょっとこれまでとは違う」禅フランクが歌うと意味深というか、二重の意味がある感じも。
私はあまりオペラグラスを使わない主義なんですが、今回の禅フランクはオペラグラスを使って、細かい表情までしっかり観たかった…。(東京公演は完売でもう追加できなさそうなので後の祭り)
 

 

 祐一郎さんと禅さんで思い出した!1幕の仮装舞踏会で、マキシムとフランクが舞台奥で舞台上手でと場所を変えながらもずーーーっと2人で楽しそうにわちゃわちゃ話してるの何ですかあれ!可愛い!あそこだけいくらでも眺めていられる!ここだけでも映像化してください!そして何をあんなに楽しそうにお話しているのか!ぜひ!教えて!ください!お願いします!!!!!!
 
 
 
 ちなみに原作のフランクは、体型は痩せぎすで、禅フランクよりも若干暗めで生真面目な印象です。レベッカに誘惑され、泣きながらマキシムに「職を辞してマンダレイを離れたい」と訴えるシーンもあります。「これまでお会いした女性の中でいちばんお美しい」レベッカに誘惑され、このままでは親友を裏切る自分を感じたので、残った良心を振り絞って逃げようとしたのですね。そんなフランクがレベッカの死の真相を知っていたのかどうかは、原作では最後まではっきりしないままです。
 

 

 

◆ジャック・ファヴェル(吉野圭吾さん)

 

圭吾ファヴェルのビジュアルを見た後で原作を読んでみたら、ファヴェルがでっぷり体型だったのでびっくりしました。けれど、「お金にも色にもギラギラした飲んだくれクズ男(※レベッカ大好き)」キャラは原作完全再現で、キャスティングした人も圭吾さんの演技力もすごいと思います。嫌なやつキャラでも、圭吾さんだから動きがきれいでダンスがきれいなんですよね。

 

レベッカのナイトガウンを抱いてゴロゴロのいやらしさ・エロさについては私が語るまでもなく圭吾さんファンが語ってくれていますが、何でしょうねあのいやらしさと動きのきれいさがほんと圭吾さん。

 

このシーン、ダンヴァースもファヴェルもレベッカのことしか見えてない感すごいですよね。ファヴェルさん、ダニーは今「あの方は男を愛したことなどない」って歌ってましたよ。ダニーさん、ファヴェルは今、あの日のままの大事なレベッカ様のナイトガウンといちゃついてましたよ。

 

そしてファヴェルは「ナイトガウンとのベッドシーンしかないの?」ってくらいこのシーンが舞台映像にガンガン入っていたし、1789のDVDはやたらアルトワ伯が映るしで、東宝演劇部内部に圭吾さんファンがいる説が出てるの面白い。

 

船が座礁した海辺での「残念、また俺でした!」「恐ろしい話、だよねぇ?」あたりは印象的な台詞だし、原作にはないお茶目さと鋭さで好きでした。

 

ちなみに原作では、マキシムと「わたし」とフランクを3人まとめて見事に侮辱することを言って、マキシムに力いっぱい殴られています。
 
 
 
 
 
どうもありがとうございました。
他の人の感想を読んで書き足したものはこちらに。
 
原作については好みもあるかと思いますが、それぞれの人物の心の動きがみっちり描かれ、どろどろした部分もあり、濃密で面白いです。謎解き部分ももう少し細かく説明してあります。旧訳(古めかしい単語や文で作品の時代や雰囲気とあってる?)と新訳(単語や文が現代的で読みやすい?)がありますが、興味を持った方はお好きなほうをどうぞ。
 
 
 

 

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