hyuga_kabocha(まっきー)のブログ

Twitterに書ききれない長文投稿用ブログです。

ラブ・ネバー・ダイの感想&妄想【その1】

Twitterを見るとほとんど語り尽くされている感もありますが、個人的な感想をつらつらと書いてみます。
 
①各Wキャストの感想を書いていきますが、分析や批評というものではあり ません。基本スタンスは、「こう違うけどみんないいよね!」です。
 
②わざわざ書くことではないかもしれませんが、1回として同じ回は無く、どの役者さんも初日から千穐楽まで進化し続けます。また、同じ回を観ても私の真逆の感想を抱いている人もいました。これは私が観た5回の公演で起こったこと、それを観て私が感じたことです。
 
③私は他国版の「Love Never Dies」に関する知識はありません。「オペラ座の怪人」もCDは聴いていますが、舞台で観たのは四季版を数えるほどだけです。原作はどちらもきちんと読んだことはありません。
 
④私の中での「オペラ座の怪人」のファントムのイメージは、市村ファントムそのものです。
 
鹿賀丈史さんの大ファンです。
 
という前置きをして、ラブ・ネバー・ダイの感想。
 
まずWファントムの全体的な印象。
 
市村ファントム、才能に溢れ、狂気に溢れた「怪人」がそこにいます。市村ファントムからは、「1人の男が醜さで歪み、パリのオペラ座であの事件を起こし、そして今ここにいて、また狂気をはらんで何かをしようとしている」という圧倒的なリアリティをビシビシ感じるのです。生身の怪人からほとばしる、クリスティーヌへと一直線に向かう激情。
 
一方の鹿賀ファントム、圧倒的なオーラ(もはや妖気)を放って存在感があるのに、生身感が無い。クリスティーヌへの執着が、人の形を成して魔力を発しているのではという感じで、まさしく「Phantom(亡霊、幽霊)」です。
しかし、それゆえ(?)いざそのクリスティーヌ(やその分身のグスタフ)を前にすると、魔力が消え、人間っぽさと弱さがむき出しになる。この人間っぽさは、公演期間の後半ほど強くなった気がします。
 
2人のファントムでわざと演出や台詞を変えている例として、トークショー
市村ファントム「私は君の音楽の天使だ!」
鹿賀ファントム「私は君の音楽だ!」
という、台詞が挙げられていましたが、市村ファントムが自らを「音楽の天使」と言い、それと違って生身感の無い鹿賀ファントムが自らを「音楽そのもの」と言うこの演出の違いは、それぞれにとても会っていて大好きです。
(いやまぁ天使にも肉体はないですし、いろんな意味で鹿賀ファントムは自分を「天使」とは言わない気がしますが)
 
そして市村ファントムは徹頭徹尾「怪人」です。憎いラウルの前でも愛するクリスティーヌの前でも、動揺しても悲しんでも怒っても喜んでも、
他人はもちろんクリスティーヌですら平気で脅すくせに紳士然と振る舞う、傲慢で我儘で激情家のファントムです。まさに私のイメージ通りのファントム。ゾクゾクします。
 
鹿賀ファントムは、「恐ろしい亡霊」と「弱い人間」との間を揺れ動きます。ラウルの前に過去の恐ろしい亡霊(を通り越して魔王)として現れるのはもちろん、クリスティーヌの前でも、過去の「音楽の師」としては亡霊のような、しかし男としては弱く情けなく子どものような表情を見せるファントム。
市村ファントムの「生身っぽさ」とはまた別の人間っぽさがあり、これはこれでまた魅力的。
 
(しかしあのマント裾が似合い過ぎてこわい。立ち姿が美しすぎてこわい。色気と妖気だだ漏れすぎてこわい。)
 
では、話は前後しますが、まずはファントムがコニーアイランドを静かに見下ろすシーンの比較&妄想から。
 
市村ファントムは、コニーアイランドでの出来事に合わせて、わずかにですが顔を動かし身体を動かし、「自分がつくり上げた世界」で起こることを1つ1つじっと見つめているように見えます。市村ファントムからは、自分の美を具現化したコニーアイランドへの関心が感じられます。
一方、鹿賀ファントムは動かず、ただ静かに冷たく「コニーアイランドがある下界」で起こる喧騒を見つめています。下から見上げると「魔王」にしか見えません。コニーアイランドに来た子どもがうっかり空を見上げて鹿賀ファントムと目があったら「お父さん、あそこに魔王がいるよ、こわいよ」「坊や、あれは狭霧じゃ」と魔笛が始まること間違い無しです。鹿賀ファントムは、世界の中に自分の美を具現化したコニーアイランドが存在しているということそのものを見ていて、コニーアイランドの中で起こる1つ1つのことにはあまり関心がない感じがしました。
 
さらにこの関心の差の原因を勝手に妄想すると、市村ファントムは「いつかクリスティーヌにこの自分がつくったこの美の世界を見せてやるんだ!」と思っていて、鹿賀ファントムは「自分の美の世界をつくってみたけど、クリスティーヌが、クリスティーヌの音楽が無いんだよね…」と思っているのではと。
 
そして舞台はコニーアイランドへ。メグ・ジリー嬢の登場。
彩吹メグ、この羽根衣装でショーダンスをしての違和感無さ、美しさはさすがです。たぶん多くの人が思ったと思いますが、後ろに大階段が見えます。ちょっと大人っぽいメグ。大人にならざるを得ず大人になってしまった哀しいメグという印象。
笹本メグ、ショーのときの甘い声かわいい。怖い奥さん忘れたくて、若くて可愛い女の子いっぱいのショーを見て喜んでるおっちゃんたちはメロメロでしょう。子どもっぽさを残しながらも大人になってしまった傷ついたメグという印象。
 
舞台裏でマダム・ジリー登場。
鳳マダム、迫力と美しさを兼ね備え、真に「女王様みたい」なのはこの人ではと。コニーアイランドを実質的に支配している感がすごい。
香寿マダム、とにかくかっこいい。男役トップとは全く別種の、女性としてのかっこよさと美しさがすごい。
とにかくどちらも素晴らしいマダム・ジリー。…で、うっかり騙されそうになるんですけど、マダム・ジリー、考えれば考えるほどひどい母親ですよね。メグが嫌なことを忘れ、必死で前を向こうと努力しているところに、毎回的確に非情な現実をつきつけてくる。いや、ある程度は現実を見ることも必要なのかもしれないですが、ものには言い方ってものやタイミングっていうものがあるし、マダムが「かわいそうなメグ、でも…」と現実をつきつけるシーンからは、メグに対する何の配慮も愛情も感じません。「現実を突きつけて、何がしたいの?娘に何を望んでいるの…?」という。
そして2人のマダムのファントムへの感情とクリスティーヌへの感情。
鳳マダムは、あくまで関心があるのはファントムと自分。そこに何か「邪魔者」が来て、ファントムにとっての「自分の存在価値」を壊したことへの怒りの要素が強い。
香寿マダムは、「クリスティーヌ」に向かう敵意と感情が強い気がします。男と女の恋愛感情とは違うけど、ちょっとだけ近いものを感じる。「あの女」が「私のファントムを!」という怒りの要素が強い。
 
しかしそもそも、マダムもメグもいつの間にそんなにファントムにぞっこんになったの?という違和感。まぁ10年の時が経てばそうなってもおかしくはないのかもしれませんが…。この辺が「LNDは全部、冒頭のファントムの妄想」説の根拠の1つですよね。
 
場面変わって、ラウル一家登場。
濱田クリスティーヌは、想像していたよりもずっとやわらかくて優しい、でもやっぱり強い母親クリスティーヌ。Twitterでも「濱めぐクリスティーヌはラウル無しでしっかり生きていけるのでは…」という意見がちらほら。
歌も台詞も演技も高安定の濱めぐティーヌですが、個人的には「月の無い夜」で、濱めぐティーヌが「愛してたのに!!!」と叫ぶように歌うシーンが胸に刺さって抜けません。クリスティーヌが本当に自身の感情を爆発させて心から叫んだのはここだけのような気がするのですが、ここは必ず濱めぐのクリスティーヌで脳内再生されます。
 
 平原クリスティーヌは母親としてがんばってはいるけど、ちょっと少女っぽさが残り頼りなさそうで、強さというよりもふいに激しさを見せる感じ。平原綾香さんはこの舞台までほとんど存じ上げなかったのですが、歌うように話すなぁというのが第一印象。歌も台詞も声の揺らぎが魅力的。演技もこれが初舞台とは思えないクオリティでびっくり。
 
ここまで違うファントムとクリスティーヌだと、組み合わせで雰囲気が変わってきます。
◆市村ファントムと濱めぐティーヌは、正面から対等に感情をぶつけあう真っ向勝負。「過去に愛し合った男女」が、「今は?」と真剣勝負をしている感じ。
◆市村ファントムと平原ティーヌは、わがままな「音楽の師」と、そんな師を好きだった「その愛弟子」っぽくて、今もそれに振り回されている感じ。
◆鹿賀ファントムと濱めぐティーヌは、姉さん女房というかもはや恋だか母性本能だかわからなくなっていませんか、みたいな感じ。
◆鹿賀ファントムと平原ティーヌは、脆く弱く幼い2人が愛し合っていたし、今も何だかんだ言ってお互い好きだよね、という感じ。
 
というところで、話を戻してもう1人の男、Wキャストのラウル。
 
橘ラウルは、可愛い歌姫に恋をした、世間知らずの爽やかイケメンヤサ男貴族だったんだろうなぁと。そんな貴族のボンボンが、打たれ弱さゆえに壊れて今に至る。
万里生ラウルは、自信に充ち溢れて輝いていた若い子爵が、今をときめく歌姫に恋をしてためらいなく突っ走ったんだろうなぁと。そんな貴族のボンボンが、プライドの高さゆえに壊れて今に至る。
2人を観てのイメージはこんな感じ。ラウルという人物そのものには山のように言いたいことがあるので後半でまとめて書きます。
 
そして、物語の重要人物、グスタフ。
山田グスタフは、ちょっとおとなしめで、優しくて上品な可愛いグスタフ。
松井グスタフは、元気な子が子爵としての教育を受けてまっすぐに育っているグスタフ。
加藤グスタフは、子どもだけど大人っぽくて思慮深いところがあるグスタフ。
 
 加藤グスタフは報道もあった通り、今回の公演で子役卒業。想像していたほどではなかったものの確かにちょっと大きくなっていて、持ち上げる役者さんはちょっと大変そうなシーンも。病み上がりの鹿賀さんが大きな加藤グスタフを抱え上げるときは、「がんばれ鹿賀さん!!」と全力で応援してしまいました。
まぁ、加藤グスタフに限らず、バルコニーの手すりの上に立てる高さまで一気にグスタフを持ち上げるとか、結構な力がいるよなぁと。このシーンは完全に、ファントム、クリスティーヌ、グスタフ3人の共同作業。他のグスタフもですが、特に松井グスタフは、ファントムが抱えて立たせやすいように全身のばねを使っていたのが印象的でした。
 
 そんな親子が馬車に乗り込み、場面は暗転。そして暗闇に現れたファントムが
「ここだエンジェルオブミュージック。おいでエンジェルオブミュージック」とだけ囁くように歌ってまた消えるわけですが、いやまぁここだけでかなりの価値が。
「それぞれのコンサート」で市村ファントムを観て衝撃を受け、その日のうちに廃版でプレミアが付いている市村版『オペラ座の怪人』のCDをヤフオク即決落札して聴いていた人間にとっては、市村ファントムがこの調べでこう歌うのを生で聴けるのはそれだけで大興奮ですし、鹿賀ファントムにこう囁かれ歌われたらもうそのまま吸い寄せられてついていくしかないですよほあああああああ。
 
というか、せっかくこう歌いながら出てきたし、ここで1曲オペラ座を何か歌ってくださいと思ったのは私だけではないはず。
 
ちょっと飛ばして、ラウルはバーへ、グスタフは寝室へ行って、音楽とともにファントム登場。
クリスティーヌはその姿を見て気を失い、床で倒れこみ、これをファントムが抱き起こして椅子に座らせ、頬に触れようとしたところでクリスティーヌが目覚め、激しく拒絶するわけですが。
 
…女性1人抱き起こすって大変なんですねぇとしみじみ。どちらのファントムに対しても、気を失っているはずのクリスティーヌが、抱き上げられて慣性の法則で勢い余ったふりをしたり密かに腹筋使ったりで全力サポートという不自然な動きがあるのは仕方がないか。
2回目の休演から復帰した鹿賀ファントムは演出自体が変更になり、気を失ったクリスティーヌが椅子にすとーんと座ります。(これを見たのは4&5回目の観劇。4回目のときはびっっっくりして声を出しそうになった)
 
音楽に合わせて進むシーンなので、こうすると抱き起こしていた分の時間が余るわけですが、ここで鹿賀ファントムがいろいろやっていて興味深い。
 
・遠巻きに見守ったあと、ゆっくり近づき、手をのばしたらクリスティーヌが目覚める(ツイート情報)
 
・近づいて頬に触れようとして手をひっこめる、でもクリスを見つめて苦しそうな顔をしてもう一度触れようとして、でもやっぱり触れられない…というところでクリスティーヌが目覚める(私の観劇4回目。2列目下手目の前で確認。)
 
・近づき、一度椅子の後ろに回ってクリスティーヌの全身を見つめ、横から顔をじっと見て、ゆっくり手をのばしたところでクリスティーヌが目覚める(私の観劇5回目)
 
明らかに、明らかに、明らかに私の観劇4回目の回の演出が、鹿賀ファントム萌えの最高潮です。どれだけうぶなんだ鹿賀ファントム…鹿賀シラノの時も思ったけど、なんでこんなにも観ている者の胸を締め付けるこんな切ない奥手純情男の顔ができるんだ…この人、立っているだけで色気だだ漏れで、自称オシリスキーのシモネタスキーのはずなのに…(※重ねて言いますが、私は鹿賀さんが大好きです)
ただ、この演出だと後方席からほとんど動きがわからないから変えたのかなぁ、と。
 
ちなみに市村ファントムは千穐楽までがっつり抱き上げたとのことで、さすが市村さん。
 
えっと、この辺で5000字超えているので、一端切ります。
「月の無い夜」からは感想その2へ続く。